アオヤマ日記

男子大学生がTwitterでは伝えきれないこと、ふと心に浮かんだことなどをゆる~く書いていこうと思います。

人間

お題「コーヒー」

 

 窓を開けると深夜だというのに、表の通りには車の往来が見えた。耳をすませると虫の声も聞こえる。秋か、と僕は独り言をつぶやいて電気ポットに水を入れた。数分経つとポットの中では水が踊るように沸騰し始める。ハワイ好きな母がどこかで買ってきたハワイアンなカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、お湯を注ぐ。

 又吉直樹さんの「人間」をようやく読み終えた。読んでいる時、気になったページには付箋を貼った。あとで見直してみると合計28枚の付箋が僕の「人間」には貼ってあった。又吉さんは太宰治が「人間失格」を書いた年齢と一緒の時に「人間」を書いた。2つの本が僕にくれたものは救いだった。

 小説を読んでいて救われた気持ちになることは本好きな人の間ではよくあることなのかもしれない。その時の置かれた環境や自分の心情に合致した作品。そういう小説を僕は心のどこかでいつも探している。

 「人間失格」の主人公、大庭葉蔵が幼い頃から周囲の人物に「お道化」をしている場面を読んだ時、僕はハッとした。口に出して誰にも言ったことはなかったけれど、周りの人間の評価が気になっておどけてみたことが何度もあったからだ。実際、大学生になった今でもおどけている自分がいる。そして、そんなことをしている自分を言葉にならないような感情で見つめている自分もいる。

人間失格」の中にはありとあらゆる社会の悩みが詰まっているというようなことを誰かから聞いたことがある気がする。お道化を含め、様々な悩み、現実、世の中の仕組み。そういったものを太宰は、あの時代に的確に指摘して死んでいった。夏目漱石の「こころ」と並ぶ日本の名著に太宰治の「人間失格」が含まれているのは、どこかで誰かの心に共感してくれる本だからだと、僕は思っている。人生に悩んだ時、僕は太宰治に助けを求める。

 「あれはな、聖書やねん」

又吉さんが中田敦彦さんに言っていた言葉が分かる気がする。

 中学生の頃、ふとした機会に学級文庫にあった「人間失格」をパラパラめくりすぐに閉じてしまった。14歳の僕では人間失格を理解するまでに心が追いついていなかった。

 当時、夜の遅い時間に「ピカルの定理」という番組が放送されていた。平成ノブシコブシや千鳥、渡辺直美さんや西内まりやさんなどが出演していたお笑い番組で、その中にピースの綾部さんと又吉さんがいたのを今でも覚えている。その頃から又吉さんの独特な笑いが好きで、YouTubeなどで又吉さんの一発ギャグやコントを探していた。

 芥川賞を受賞した「火花」、2作目の「劇場」、そして又吉さんの初めての長編小説「人間」。全て漢字2文字で揃えてくるところもお洒落な印象を受ける。

 高校生の頃から、変なことで悩むようになった。歳を重ねるとともに、悩みはどんどん膨らんでゆき、今では僕は常に悩みを3個くらい抱えて生きている。1つ消しても、ぴょこんと生まれ。ぴょこんと生まれたと思ったら、次は2つぴょこんぴょこんと出てきたりもする。頭の中には悩みしか無い。これは僕の性質だから、もう仕方ないんだと思う。ある時、悩みすぎている自分を見て、こんなことで悩んでいるの自分しかいないだろうな、と思っていたところに現れた救世主が太宰治であり、又吉直樹さんだった。自分と同じことで悩んでいるのは、僕以外にもいたんだな。そう思えたことで、悩むことは自分にとって大切なもののような気がしてきた。

 読み終えた「人間」は僕にとって太宰治の「人間失格」と同じくらいのバイブルになったと思う。

 あと何度読むのか分からない。悩んだ時は人間らしく人間を描いた文学に助けを求める。

 ブログを書いていると、先程入れたコーヒーが完全に冷めてしまっていてお湯を沸かした意味がなかったことに気がつく。