アオヤマ日記

男子大学生がTwitterでは伝えきれないこと、ふと心に浮かんだことなどをゆる~く書いていこうと思います。

小説を通して

お題「好きな作家」

 

先日、御茶ノ水駅前の丸善書店夏目漱石の「吾輩は猫である」を買った。小銭で膨れ上がっている財布から1円玉を探そうとじゃらじゃら鳴らしていると、書店の店員さんが「夏目漱石って面白いですよね?」と微笑みながら話しかけてきた。

「え、あ、はい。僕は特にこころが好きです」

突然話しかけられたので、つかみかけていた1円玉が再び小銭の海へと落ちていった。

「すみません。これでお願いします」

私は1円玉探しを諦め、代わりに野口英世を1人差し出した。さらにぱんぱんに膨れ上がった財布と小説を手提げ鞄に入れて私は店を出た。私は店員さんに嘘をついてしまったことを少し後悔した。「特にこころが好きです」なんて言うと、あたかも夏目漱石の小説を読み漁っているファンのようなセリフだが、実際、高校時代に「こころ」を1冊読んだだけで、それ以外は読んだことがなかった。

 後日、私の愛すべきファンの1人が「今、夏目漱石三四郎を読んでる」と教えてくれたため、私は三四郎も買ってしまった。

 「こころ」も「三四郎」も読み終わった後に体の力が全て抜けてしまうような素晴らしい作品だった。素晴らしいなんていう言葉を私のような人間が使ってしまうのはおこがましいが、やはり素晴らしい小説だった。

 こうして文章を書いている時、何を書いていいのかわからなくなることがほとんどだ。そういう時、思い出すのが以前書店で見かけた本の表紙に書かれていた言葉だ。

『自分が読みたいものを書く』

 自分が気にいる小説というのは、自分が読みたいと思っていたものが書かれていた小説なんだろうなと思う。全ての人がどうか分からないが、誰にも言えないことを自分の中だけに隠して生きている人は少なくともいると思う。私も常に悩みを抱えて生きているし、時々悩みすぎて深い沼に沈んでいくような気持ちになる。そういった時、私は共感してくれる人やものを無意識のうちに探している。1人でも自分に共感をしてくれる人がいたら、なんて心強いことだろうとは思うけれど、そういう人は現れないことだってある。

 芥川賞を取った又吉直樹さんが太宰治のファンだと言うことは高校生くらいの時に知った。それから数年後、ふとした機会に、「人間失格」を読んでみた。中学生の時に、学級文庫で見かけて手にとってみたが数ページで閉じた小説だ。

 「人間失格」を読んだ後、私は共感者を見つけたと思った。また、私こそ太宰の理解者だとも思った。しかし、そういう感情は太宰の小説を好む人にはよく見られることのようなので少しだけ喜びは薄れてしまった。それでも、自分の人生を理解してくれる小説を見つけたことに、秋の涼しさを感じた時のような幸せを覚えた。

 太宰治の小説を3ヶ月くらいかけてじっくり読んだ。そして、太宰と関わってきた小説家の本も読んでみた。

その中でも、太宰治又吉直樹さんの小説は私のこころを代弁してくれているような印象を受けた。悩んでいるのは私だけじゃないんだな。そう思えただけで私は十分幸福だった。

先日、薬理の講義を受けている時に講師が「どんな薬にも副作用というものが存在する」と言っていた。1つしか作用を持たない薬は存在しない。薬は必ず、予期していた作用とは違う作用を持っている。そう説明していた。

 それを聞いた時、私は小説も一種の薬なんだと思った。読者によって解釈は変わってくるし、その小説が読者に与える影響も変わってくる。主作用と副作用は人それぞれだ。活字中毒という言葉があるように、小説を好む人はその薬の作用の虜なのかもしれない。

だから、読書はやめられない。