アオヤマ日記

男子大学生がTwitterでは伝えきれないこと、ふと心に浮かんだことなどをゆる~く書いていこうと思います。

暇だから故郷についてつづる。「眠たいのに眠りたくない夜」

眠たいのに眠りたくない夜がある。眠たい時は勉強もしたくないし、ゲームもしたくない。本を開いても、気がつくと、本の内容とは違うことを考えて文字だけを目で追っている。

そんな夜は家を出て夜の街を散歩してみたいのだが、眠気が邪魔して、うまく体が動かない気がする。

リビングでは、犬がボールで遊んでおり、酒を飲んだ父と母はいつも通り支離滅裂な会話をしている。

中学生の時に、毎晩のように眠れなくなったことがある。家族が寝静まった後も、自分の部屋で何度も寝返りを打ったり、真っ暗闇で天井を見つめていた。その当時は、不眠症かもしれないと不安を感じていたが、よくよく考えてみると、学校から帰ってきて、夕方から夜にかけ2時間くらい寝てしまっていたことが原因だった。

高校生になると、毎日が睡眠との葛藤の生活に変化していった。学校の宿題、試験勉強、受験勉強をかぎられた時間で、しかも眠気の中でやらなければならないのは酷だった。

大学生になり、たくさん眠るようになった。眠たいのに眠りたくないという現象は、大学生になった後に始まったように思える。いつでも好きな時に眠れるから、そういう風に思えるのだろう。今も文章を書きながら、今日は何時に寝ようか考えている。僕は寝る時間を好きに決められる。贅沢な選択肢だ。誰かが大学生は人生の夏休みと言っていた気がする。夏休みに何に取り組もうが個人の自由だが、周囲の人間と同じようなことはしたくないという、頑固な自己意識を抱えつつ、今日も世間的に見て普通の生活を送ってしまっている。

頑固な自己意識といえば、僕は髪の毛を染めたら己の人生の敗北だと自分に言い聞かせている。高校卒業と同時に大体の人は髪の色を変える文化が日本にはある。僕にはそれができなかった。周囲に合わせることが、自分の存在価値を消してしまうような気がしてならなかった。一方で、周囲と変わったことをすることに趣があると思ってしまっている自分もいる。いわゆる、自分は、周囲に変わっている人間として認められたい、承認欲求の強い人間のひとりなんだと思う。

人間は自分が存在できる場所を探して、その場所にあった自分を形成する。僕は自分のことを変人だと思うし、また、周囲の人のことも変人だと思っている。

みんな少しづつ変人である。

さすがにこの辺りで書いていて恥ずかしくなってきたので、今日はもう少し本を読んで、寝ようかと思う。

 

暇だから故郷についてつづる。「神社裏の森」

久しく文章を書くことから逃れていた僕は、近頃少しばかりの罪悪感を抱いていた。通販で入手した又吉直樹さんの「東京百景」という本を読んでいて、風景や思い出をつづるエッセイがこんなにも面白いのかと感動した。地元に疎開して実家に引きこもり時間が有り余っている今、文章を書かなければ、このまま一生文章から逃げてしまいそうなので、リハビリとして地元の風景を文字におこしてみようかと思う。

 

「神社裏の森」

実家から歩いて5分ほどの場所に大きな神社がある。神社では年に数回お祭りが開かれ、その時期になると神社周辺は色々な食べ物の匂いが漂う。神社の裏にはやや広めの森があって、小学生の頃に友達たちとその森で遊んだ。

1番思い出に残っているのは、みんなで木の枝や葉っぱを駆使して森に作った秘密基地だ。習い事のない放課後は、少年たちの集会所となっていた。

森の入り口には浅い川が流れている。ある時、友人の1人がその川で鳥の死骸を見つけて、川に降り、みんなで観察したこともある。

また、森には時々、鶏のコスプレをしたおじさんがひとりで踊っていると少年たちの間で噂になっていた。神社には鶏が住み着いているため、鶏がおじさんに化けたのかもしれない。僕も実際に鶏おじさんを見かけた気もする。僕の頭に思い浮かんでいるおじさんは、鶏のトサカ帽子をかぶっていて、鶏のような色の衣装を着て、自転車を押している。果たして、これが噂の彼なのかは分からないが、とにかくそんなおじさんがいた。

森でクワガタ採集をしたこともあるし、落ちていた破廉恥な本を友達と一緒に照れながら読んだこともある。

中学生になり、僕はその森には入らなくなった。野球のクラブ活動も忙しく遊ぶ時間がなかった。友人たちは、森の中でエアガンを使ったサバイバルゲームをして遊んでいた。何回か学校に苦情が入り、エアガン戦争をしていた友人たちは、教師に連行されエアガンの弾を一粒ずつひろったらしい。この辺は記憶が曖昧だが、僕もサバイバルゲームをみんなとしたかったと今でも思っている。

昨年の年末に中学の委員会仲間と小さな同窓会を開いた。帰りに友人たちと歩きながら、その森をなんとなく眺めていた。友人の1人が、その森の近くに住んでいるので数人で見送っていたのだ。夜は薄気味悪く、森は誰も近寄らせないオーラを放っていた。

友人を家まで見送った後、残った仲間と思い出を語り、将来について話し合っているうちに、僕は森のことなどすっかりと忘れてしまっていた。

「なぜ勉強をしなければいけないか」について

今週のお題「ねこ」

 

吾輩は猫である。名前は適当につけてくれ、何でもいい。

吾輩は暇をもてあましている。たいそう暇である。暇だから、こうして深夜に握りこぶしくらいの小さな頭で考え事をしている。

吾輩の特技は悩むことである。暇だから悩んでいるのである。何かすることがあれば、猫も人間も悩んでいられないくらい必死になって生きている。

今宵の悩みは、「なぜ勉学をしなければならないのか」ということである。これは古今東西における難題である。

吾輩の地元の猫仲間である神無月君(仮名)は、数学をこの上なく愛する猫である。神無月君は、猫でありながら人間相手に家庭教師をしており、猫類社会発展のために猫力を尽くしている。

吾輩が地元に帰省すると必ず神無月君と会うのだが、彼はとある問題を抱えている。彼の教え子、人間年齢で言うなら14、5歳であろうか。その教え子が、この上なく勉学に対する向上心がなく、もはや勉学をやることに疑問を感じてしまっているそうである。ある時、神無月君は、その教え子君に「どうして勉強をしなければならないのか。」と尋ねられたらしい。困り果てた神無月君は、どうにかして教え子君にやる気を出してもらえるように、モノでつる作戦を立てたり、あらゆる試行錯誤をしたが、教え子君のやる気は全くもって出てこない。

困ったものである。

吾輩の本棚にある某作家の本には「なぜ勉強をしなければならないのか」ということに対する答えが書いてあった。某作家曰く、「勉強をしないで大人になると、必ずむごいエゴイストになる」らしい。勉強を教わることで人間や猫は広い心を持ち、物事を愛することを知る。日常生活に役に立たない勉強こそが、将来我々の人格または猫格を形成するのである。数学や理科など一回覚えたことは忘れてしまってもいい。大事なのは覚えることではなく、カルチベートされることである。作家は語る。真にカルチベートされた人間(猫)になれ!と。

さて、この作家のお言葉を神無月君の教え子君に伝えてみてはどうかと、吾輩は思ったのであるが、果たしてうまくいくものだろうか。吾輩のような偉大すぎる猫であるならば、某作家の文章を読んで深い感銘を受けてしまうのであるが、まだ育ち盛りの人間に説教を唱えたとしても、ピンポン球のようにぽーんと跳ね返されてしまう可能性は大いにある。実際に、吾輩がまだ子猫だった頃、吾輩は大人の猫の言うことはほとんど聞く猫耳を持たなかった。勉強をしないとどうなるかなんて、立派な大人の猫にならないと分らないし、勉強をしなかったからと言って、人生、いや、猫生が良くない方向に進むわけでもない。

いかに自分の能力を伸ばすことができるかが重要になってくるのではないかと、吾輩は考えるのである。

吾輩はたまたま勉学や読書が好きだったから今の吾輩であるし、それ以外の例えば野球なんかを吾輩にやらせてみれば、見ていて恥ずかしくなるほどへたっぴである。

神無月君の教え子君にも必ず伸ばせる得意分野があるはずである。吾輩が踏み入ることのできない領域に、足をいれることができるのである。それはそれで素晴らしいことだと吾輩は感じる。

ただ、忘れてもらいたくないのが、某作家のお言葉である。やはり、勉強を少しでもかじることによって、人や猫から教えを受けることによって、社会を、己の能力を学び、己の内面を磨き、自分がやりたいことを始めた際に物事の仕組みを少しでも理解しておいた方が、さらなる飛躍につながるのではないか。そんなことを、ふと、思ったのである。

諸君は、「勉強をしなければならない理由」についてどう考えるだろうか。

人間

お題「コーヒー」

 

 窓を開けると深夜だというのに、表の通りには車の往来が見えた。耳をすませると虫の声も聞こえる。秋か、と僕は独り言をつぶやいて電気ポットに水を入れた。数分経つとポットの中では水が踊るように沸騰し始める。ハワイ好きな母がどこかで買ってきたハワイアンなカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、お湯を注ぐ。

 又吉直樹さんの「人間」をようやく読み終えた。読んでいる時、気になったページには付箋を貼った。あとで見直してみると合計28枚の付箋が僕の「人間」には貼ってあった。又吉さんは太宰治が「人間失格」を書いた年齢と一緒の時に「人間」を書いた。2つの本が僕にくれたものは救いだった。

 小説を読んでいて救われた気持ちになることは本好きな人の間ではよくあることなのかもしれない。その時の置かれた環境や自分の心情に合致した作品。そういう小説を僕は心のどこかでいつも探している。

 「人間失格」の主人公、大庭葉蔵が幼い頃から周囲の人物に「お道化」をしている場面を読んだ時、僕はハッとした。口に出して誰にも言ったことはなかったけれど、周りの人間の評価が気になっておどけてみたことが何度もあったからだ。実際、大学生になった今でもおどけている自分がいる。そして、そんなことをしている自分を言葉にならないような感情で見つめている自分もいる。

人間失格」の中にはありとあらゆる社会の悩みが詰まっているというようなことを誰かから聞いたことがある気がする。お道化を含め、様々な悩み、現実、世の中の仕組み。そういったものを太宰は、あの時代に的確に指摘して死んでいった。夏目漱石の「こころ」と並ぶ日本の名著に太宰治の「人間失格」が含まれているのは、どこかで誰かの心に共感してくれる本だからだと、僕は思っている。人生に悩んだ時、僕は太宰治に助けを求める。

 「あれはな、聖書やねん」

又吉さんが中田敦彦さんに言っていた言葉が分かる気がする。

 中学生の頃、ふとした機会に学級文庫にあった「人間失格」をパラパラめくりすぐに閉じてしまった。14歳の僕では人間失格を理解するまでに心が追いついていなかった。

 当時、夜の遅い時間に「ピカルの定理」という番組が放送されていた。平成ノブシコブシや千鳥、渡辺直美さんや西内まりやさんなどが出演していたお笑い番組で、その中にピースの綾部さんと又吉さんがいたのを今でも覚えている。その頃から又吉さんの独特な笑いが好きで、YouTubeなどで又吉さんの一発ギャグやコントを探していた。

 芥川賞を受賞した「火花」、2作目の「劇場」、そして又吉さんの初めての長編小説「人間」。全て漢字2文字で揃えてくるところもお洒落な印象を受ける。

 高校生の頃から、変なことで悩むようになった。歳を重ねるとともに、悩みはどんどん膨らんでゆき、今では僕は常に悩みを3個くらい抱えて生きている。1つ消しても、ぴょこんと生まれ。ぴょこんと生まれたと思ったら、次は2つぴょこんぴょこんと出てきたりもする。頭の中には悩みしか無い。これは僕の性質だから、もう仕方ないんだと思う。ある時、悩みすぎている自分を見て、こんなことで悩んでいるの自分しかいないだろうな、と思っていたところに現れた救世主が太宰治であり、又吉直樹さんだった。自分と同じことで悩んでいるのは、僕以外にもいたんだな。そう思えたことで、悩むことは自分にとって大切なもののような気がしてきた。

 読み終えた「人間」は僕にとって太宰治の「人間失格」と同じくらいのバイブルになったと思う。

 あと何度読むのか分からない。悩んだ時は人間らしく人間を描いた文学に助けを求める。

 ブログを書いていると、先程入れたコーヒーが完全に冷めてしまっていてお湯を沸かした意味がなかったことに気がつく。

小説を通して

お題「好きな作家」

 

先日、御茶ノ水駅前の丸善書店夏目漱石の「吾輩は猫である」を買った。小銭で膨れ上がっている財布から1円玉を探そうとじゃらじゃら鳴らしていると、書店の店員さんが「夏目漱石って面白いですよね?」と微笑みながら話しかけてきた。

「え、あ、はい。僕は特にこころが好きです」

突然話しかけられたので、つかみかけていた1円玉が再び小銭の海へと落ちていった。

「すみません。これでお願いします」

私は1円玉探しを諦め、代わりに野口英世を1人差し出した。さらにぱんぱんに膨れ上がった財布と小説を手提げ鞄に入れて私は店を出た。私は店員さんに嘘をついてしまったことを少し後悔した。「特にこころが好きです」なんて言うと、あたかも夏目漱石の小説を読み漁っているファンのようなセリフだが、実際、高校時代に「こころ」を1冊読んだだけで、それ以外は読んだことがなかった。

 後日、私の愛すべきファンの1人が「今、夏目漱石三四郎を読んでる」と教えてくれたため、私は三四郎も買ってしまった。

 「こころ」も「三四郎」も読み終わった後に体の力が全て抜けてしまうような素晴らしい作品だった。素晴らしいなんていう言葉を私のような人間が使ってしまうのはおこがましいが、やはり素晴らしい小説だった。

 こうして文章を書いている時、何を書いていいのかわからなくなることがほとんどだ。そういう時、思い出すのが以前書店で見かけた本の表紙に書かれていた言葉だ。

『自分が読みたいものを書く』

 自分が気にいる小説というのは、自分が読みたいと思っていたものが書かれていた小説なんだろうなと思う。全ての人がどうか分からないが、誰にも言えないことを自分の中だけに隠して生きている人は少なくともいると思う。私も常に悩みを抱えて生きているし、時々悩みすぎて深い沼に沈んでいくような気持ちになる。そういった時、私は共感してくれる人やものを無意識のうちに探している。1人でも自分に共感をしてくれる人がいたら、なんて心強いことだろうとは思うけれど、そういう人は現れないことだってある。

 芥川賞を取った又吉直樹さんが太宰治のファンだと言うことは高校生くらいの時に知った。それから数年後、ふとした機会に、「人間失格」を読んでみた。中学生の時に、学級文庫で見かけて手にとってみたが数ページで閉じた小説だ。

 「人間失格」を読んだ後、私は共感者を見つけたと思った。また、私こそ太宰の理解者だとも思った。しかし、そういう感情は太宰の小説を好む人にはよく見られることのようなので少しだけ喜びは薄れてしまった。それでも、自分の人生を理解してくれる小説を見つけたことに、秋の涼しさを感じた時のような幸せを覚えた。

 太宰治の小説を3ヶ月くらいかけてじっくり読んだ。そして、太宰と関わってきた小説家の本も読んでみた。

その中でも、太宰治又吉直樹さんの小説は私のこころを代弁してくれているような印象を受けた。悩んでいるのは私だけじゃないんだな。そう思えただけで私は十分幸福だった。

先日、薬理の講義を受けている時に講師が「どんな薬にも副作用というものが存在する」と言っていた。1つしか作用を持たない薬は存在しない。薬は必ず、予期していた作用とは違う作用を持っている。そう説明していた。

 それを聞いた時、私は小説も一種の薬なんだと思った。読者によって解釈は変わってくるし、その小説が読者に与える影響も変わってくる。主作用と副作用は人それぞれだ。活字中毒という言葉があるように、小説を好む人はその薬の作用の虜なのかもしれない。

だから、読書はやめられない。

 

僕は馬鹿です。

今週のお題「夏を振り返る」

 

夏を振り返る以前に自分を振り返ってみると、非常にひねくれた人間だなと思います。文章を読むのも書くのも好きで、時々こうしてブログを書いたり、小説を読んだり、書いたりしていますが、もう自分の才能のなさに呆れて、呼吸をするだけで罪悪感を覚えてしまいます。仲の良い友人などには、「僕は小説を書いているんだ」と威張っていた時期もありますが、書いていて、まあ、うまくいかない。設定も面白くないし、文章はめちゃくちゃだし、感情の起伏が激しいし、ああ、自分ってなんてダメな人間なんだろうと一日中思っております。あと、書いていて、結末が思いつかない。悲しい。文章を書いてごめんなさいというレベルの自己嫌悪。今もこうして、夜中のテンションにカフェインを加えて、何にもならないような文章をただただ書いているだけですが、書いていて、どこかで自分に酔ってる気もします。案外、自分才能あるんじゃないか、みたいなことをちらっと考えたりもしてしまいます。文豪の文章ってたまに何書いてあるか分からないじゃん。それと同じで、僕も何を書いているのか分からない。故に天才肌。このような考えが無きにしも非ず。自分はなんてひねくれているのでしょう。という次第であります。

煙草。

 侍の国日本。比較的平和なこの国で僕が精神的に破滅しそうになるのは、激しい便意に襲われた時です。先日、札幌を拠点として同級の友人たちと北海道を10日間ほど旅していました。旅も終わりに近づき、帯広駅で豚丼を腹一杯食べた後のことです。帯広から札幌に向かうには数十キロも便所がない山道を車で走らなければなりません。困ったことに僕の体は食べ物を摂取すると、たちまちに便意を催してくる非常に単純な構造をしています。僕の期待に応えて、今回も便意は予告も無しにやってきました。

 はじめ、僕は山道を恐れていました。便所がない。それだけで、この世界は十分すぎるほど僕を地獄に叩き落とします。山道。地獄のハイウェイです。僕は運転手に次の街までどのくらいか尋ねました。20キロ。耐えられるわけがありません。僕は運転手に、山道で止まってくれと頼み込みました。運転手は一瞬躊躇しましたが、すぐに止まれる場所を見つけてくれ僕たちの車は北海道の大自然の中で静かに停止しました。その後、僕は人目につかない森に入り静かに用を足しました。周囲には何かの動物の糞がコロコロ転がっていたので、僕自身も妙な安心感を覚えました。

 

 この話は、僕と旅行に行った同級の友人たち5人と両親しか知りません。

     ○

 旅行から戻った僕は道玄坂にある居酒屋で小学校の同級生たちと酒を飲んでいました。酒は日々嗜んでいる身なので、苦手では無いのですが、尿意が通常の5倍に感じられるようになります。あるいは、酒を飲むときだけ、膀胱が小さくなるのか。10分に1回くらいは便所へ行き、小便をしていました。小便をした後は、便所の壁の鏡に向かって、変顔を披露し、酔ったなぁとつぶやいた後、手を洗いました。便所から戻ると、同級生たちの笑い者になり、僕も小便に行くだけで人を笑顔にさせることができるのかと、我ながら自分の力量に惚れ惚れしました。

 僕が自分の尿意以上に驚いたのは、飲み会に参加した僕以外の男たちが皆、煙草をスパスパ吸うようになっていたことです。ある男は、30分遅刻してきたのにもかかわらず、居酒屋に着くやいなや、ビニールに包まれた新品の煙草箱を取り出し、慣れない手つきで包装をはがし始めました。お茶目。昔から、お茶目な男でした。成人式で再会した時も、本来の自分に無理に歯向かって格好をつける。本当は優しい子なのに、ちょっと悪びれた成人を演じる。人間らしい。その友人からは人間らしさがにじみ出ていました。

 数ヶ月前、僕は彼のことを成人式の記事に綴りました。彼には内緒にして、彼の成人式の立ち振る舞いを書いてしまいました。その記事を読んだ彼と他の友人たちは、すぐに気づいたらしく、酒を飲みながら「あれは俺のことだろう?」と尋ねられ、僕も少しきまりが悪くなりましたが嘘はつけず「そうかもしれない」と曖昧な返事を返しました。内心、怒られるかもしれないと思っていましたが、優しい彼は怒らず、煙草を吸いながら「今日のことも書いてくれ」と笑いました。ありがとう。僕は彼に直接言えませんでしたが、心の中では申し訳なさと感謝の気持ちが混合した感情が湧いていました。

      ○

「ドンキであけた」

僕の隣に座った別の友人の耳には穴が開いて、銀色のピアスが輝いていました。

彼は最初、煙草を吸っていないと嘘をつきました。その嘘は、受動喫煙とともに見破られ、受動喫煙の煙に興奮した彼も箱から1本煙草を取り出し吸い始めました。

 僕は昔、彼と喧嘩をしたことがあります。小学3年か、4年の時のことです。体育の時間に2人は運動場で寝転がりながら、子犬の喧嘩のような可愛い遊戯を繰り広げていました。原因は覚えていませんが、最後は先生に叱られて2人でおいおい泣きました。泣きながら、僕は保健室に行きました。

 その後は彼とは1度も喧嘩をしたことがありません。成人式で再会した時は明るい好青年になっていて、うらやましく思ったことを覚えています。

 今回の飲み会の二次会後、彼は小学時代の同級生の女性のうちへ、その女性とともに向かいました。その後の経過が気になりますが、ここは大人の事情。深く踏み込んではいけないのです。

     ○

結局、僕が同級生たちとの飲み会で発見したのは受動喫煙で吸う煙は心地良いということです。僕は少し変わっています。それは生まれつきだから仕方ないのです。受動喫煙は体にとても良くないことは百も承知です。なのに、僕はその煙を鼻の穴から勢いよく吸い、はぁと息を吐き出す心地よさに気づいてしまいました。一緒にいた他の同級生に叱られました。お前は馬鹿かと。

 「煙草は吸わないが、煙草と酒と小説があれば、文豪っぽくてかっこいい」

僕はその同級生に馬鹿と言われぶたれました。

 僕の通学路にも喫煙所があります。喫煙者のオアシス。そして秘かに僕の楽しみでもある。だけど、僕は自分の肺を黒くはしたくないので、渋々息を止めてそこを通るようにしています。

明日からまた大学が再開されます。

受動喫煙と僕の淡い恋。決して結ばれてはいけない2人。さようなら、煙。